ぼっちですが、何か?(プレビュー)

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人間嫌いの理由〜自称・コミュ障とぼっちが自分を理解するためのリスト50の続編です。

2014年10月に出版した作品です。

 

ぼっちですが、何か?


【目次】 

はじめに 時代はコミュ障ぼっち?

1章 ぼっちの辛さはどこからやってくるのか 

・「誰からも必要とされていない」からかな・・・ 

・「おひとりさま歓迎」の宿に、予約を断られた時かな・・・ 

・「みんながワイワイ」してるのに、ハブられる時かな・・・ 

・「将来は孤独死」とか、想像しちゃう時かな・・・ 

・「無理して会話」したあと、どっと疲れた時かな・・・ 

 

2章 振り返れば、ぼっち 

・小中高大の学校生活はまるで懲役刑。会社生活は監獄 

・気がつけば「アンタッチャブル」な存在に 

・「デフォルトぼっち」を意識した20代 

・「抱きしめて、宇宙の果てまで!」な、孤独深まる30代 

・「ひとりでも大丈夫」うっすら前向きになれる40代からのぼっち 

 

3章 ぼっちを極めるとこうなるんです 

・外じゃビクビク、一刻も早く帰りたい自宅は「絶対時間(エンペラータイム)」 

・ぶつもり、モンハンですら、ぼっちです 

・ガラケー、着信履歴はすべて業務連絡 

・ペットと会話・・・ハイ、ぼっちですから 

・脳内で会話ができる・無機物と話せる 

 

4章 ぼっちにありがちなこと 

・シャキシャキした店員さんに当たると、キョドる 

・用がないと人に話しかけられない自分に自己嫌悪 

・地下鉄で目のやり場がなく、音楽を聞いて寝たふりをする 

・リア充の人とは、たいてい話が合わない 

・久しぶりに話すと、変な声が出てくる 

 

5章 ぼっちが挙動不審になる瞬間 

・食堂で「おひとりさまでーす!」とデカイ声で案内されたとき 

・修学旅行のグループ分けで冷や汗 

・「もうやめて・・・」他のぼっちが晒しものにされているのを見たとき 

・何も悪いことをしていないのに、パトカーとすれ違ったとき 

・「友達に聞いてみてくれない?」と頼まれたとき 

 

6章 後ろ姿に哀愁を感じるぼっちですが 

・誕生日を忘れずに祝ってくれるのは、契約プロバイダからのメール 

・サングラスとマスクをすると、強くなった気がする 

・変な発言をしないように、頭で検証してから話すのでワンテンポ遅れる 

・人の顔と名前を覚えられないので、たまに話しかけられると焦る 

・景色も人も、遠くから眺めるほうがキレイ 

 

7章 恋愛と結婚から、はるか遠くの彼方のぼっち 

・えっと・・・男女関係とか、ぶっちゃけめんどくさいですよね? 

・「クリスマス」「バレンタイン」カップルの日でも、わりと平気 

・「リア充爆発しろ!」は、じつはノリです。すみません 

・ヤバイくらい色気がない、悟りが開けそうなぼっち 

・「結婚したくない」から「結婚できない」で一生ひとりぼっち 

 

8章 考えたくないけど考えちゃう老後。おひとりさま、かあ・・・ 

・「老後はどうしよう・・・」楽天的じゃなきゃ、やってられないぼっちの不安 

・貯金÷一ヶ月分の生活費=残りのライフゲージ 

・「孤独死・一ヶ月後に発見」ニュースを見るたびに鬱になる 

・物足りなくても平穏なぼっちライフ。何も起こらない毎日が安らぎ 

・「人生は、正負の法則」、おひとりさまの幸せもあるさ 

 

おわりに 「これからは、ぼっちの時代」を確信したキアヌ・リーブスのぼっち姿 

 


 

ぼっちですが、何か?

 

はじめに 時代はコミュ障ぼっち? 

 

 風の冷たさを感じるようになり、ああ、また秋がやってきたんだ、と去年のことを思い出します。

 去年の秋、わたしは「コミュ障ぼっち」に関する本を出版しました。わたしの過去の経験を思い起こし、マイノリティであろう自分の思いをまとめた内容でしたから、「こんな本は、とても売れやしないだろう。でも、書きたくなったから書いたのだし、同じような気持ちでいる方々に読んでもらえれば、それでいい」と、さほど販売部数を期待せずにいました。
 
 ところが思いがけず、その本はわたしがこれまで出版した本の中で最も売れた一冊となったのです。
 売れる、ということは需要があること。インターネットで「コミュ障ぼっち」を検索すると、無数の関連サイトが出てきます。心なしか、出版後に「コミュ障ぼっち」の話題が増えてきたような気もいたします。
 
 それでふと、「わたしが思っていたよりも、コミュ障やぼっちは、マイノリティではないのでは……」と思いはじめたのです。

 多くの方がさみしい自分を隠してリア充を演出し、本心では「俺って、コミュ障だよな」と感じている可能性は?
 
 取り巻きに囲まれながらも心の内では孤独で、「精神的ぼっち」でいる可能性は?
 
 誰もが心の中に、「コミュ障」を抱いていたり、「ぼっち」を抱えているとしたら……。

 そう考えはじめると、止まらなくなってきました。

 わたしは長年、人とのコミュニケーションに難を感じており、『人と比べると、わたしは異常なんだろうな』というコンプレックスをもっていました。人とのつきあいづらさ、人への恐怖心、人間関係が心にもたらす不幸、数え切れないほどのネガティブな感情を持て余しました。

 しかしここに至って、それらはごく自然な誰もが持っている素養であり、コンプレックスを感じるか否かは内的な感情を「飼い慣らせるか」にかかっているのでは、と気づきました。「わたしはコミュ障だ」「わたしはぼっちだ」という思い込みは、言わば主観です。他人から見れば、じつはそれほどでもない、という可能性もあります。 

 もし、この仮定が正しいのであれば、わたしは自分が考えていたよりは『異常』ではないかもしれないのです。人と比べて『わたしはおかしいのでは』と思いこみ、しりごみしながら生きていただけかもしれないのです。
 他人と自分を比べることは、多くの場合、不幸をもたらします。ネガティブマインドの持ち主であれば自己否定に走り、ポジティブマインドであっても増上慢(ぞうじょうまん)に陥(おちい)るあやうさを秘めています。人は自分自身に対して、公正で客観的な判断は下しづらいものです。自分自身の判断を疑うことが、時には自分を救うこともあります。

「わたしは他の人と比べておかしい」と考えたのであれば、反対に「わたしは他の誰とも変わらない、ごく平均的な人間だ」という視点から、自分を見つめなおすべきです。
 そこから見えてくるのは、ほかの多くの人と同じように、葛(かっ)藤(とう)を抱える人間のひとりに過ぎないのだ、ということ。

 誰もが「コミュ障ぼっち」の素養を持っている。そして、人生のどこかで、コミュ障な自分、ぼっちな自分を発見するだけ、なのではないでしょうか。

 それを確信したのは、世界的な俳優であるキアヌ・リーブスの『ぼっち姿』でした。『マトリックス』で一(いっ)世(せい)を風(ふう)靡(び)した大スターが、無精ひげを生やして公園のベンチでぼっち飯。まさに、『ぼっち、ここに極まれり』と言えるほど、孤独感漂うひとりぼっちの姿でした。

 あれ……? ぼっちって、わりと普通なんじゃない?

 世界的な人気俳優として成功して、イケメンで女性たちにもキャアキャアと騒がれていただろうに、そんなキアヌですら、『ぼっち』になっている……。

 しかも彼は、ぼっちでいる自分をさほど苦にしているように見えず、孤独をそのまま受け入れているように感じました。『ぼっちの、何が悪いの?』とでも言うように、とても自然なのです。

 キアヌの自然なぼっち姿は、わたしに奇妙な自信を与えてくれました。それは、『ぼっちですが、何か?』と言える強さです。

 孤独であること、コミュニケーションに苦手意識を抱くことはその人自身の内的な問題ですが、時折『いい大人が、コミュ障とかぼっちとか言ってんなよ(笑)』と、あざ笑う方も出てきます。

 ですが、心の問題は、年齢では片づけられません。大人のふりをすることはできますが、むき出しになった心は、年齢を重ねるだけでは年を取ることができないのです。

 成長しきっていない心の持ち主が、世間向けに老成した人格を装っていても、それは演技でしかありません。演技はできても、心は葛藤し続け、精神的な疲れが蓄(ちく)積(せき)してある日突然、ポッキリと折れたりします。だから、無理をして『自分じゃない自分』を生きるのは良くないのです。

 この本は、『ぼっちでいる自分』を見つめ、今の自分を受け入れるための本です。また、前作『人間嫌いの理由』を読んでくれた読者を心に浮かべながら、書きました。

 ひとりでいるだけで笑われるこのご時世、『ぼっち』は生きづらいものです。世間の目に気後れを感じて、本当はひとりでいたいのに、誰かと無理して一緒にいることもあるでしょう。ひとりで行動することに、恥や罪悪感のようなものを感じることもあるでしょう。

 本当は、自分はどうしたいのか?

 ひとりでいることは、そんなに悪いことなの?

 孤独と向き合って、生きていくには……。

 こんな思いが胸に浮かんだら、ぜひ本書を開いてください。そして、『ぼっちですが、何か?』と言える強さを、自らの内側に見つけてください。

 


一章 ぼっちの辛さはどこからやってくるのか

 

「誰からも必要とされていない」からかな・・・

 

 人は誰しも、『誰かに必要とされる』ことで、生き甲斐を感じます。若い頃は自分中心で好き勝手に生きてきた人でも、誰かに自分という存在を必要とされると、急に変わることがあります。愛する人を見つけて結婚し、子どもができれば『妻子を守れるのは、自分しかない』と、真面目に働くようになったケースは珍しくないです。

『誰かに必要とされる』ことは、人を変えてしまうほど、大きな出来事です。しかし、ぼっちにはそれがありません。ひとりですから、誰にも必要とされていないのです。ぼっちが今日死んでも、誰も困らないし、悲しむ人もいません。親兄弟がいれば悲しんではくれるでしょうが、それくらいです。下手をすると、親兄弟からも『かわいそうっちゃ、かわいそうだけど、いなくなってスッキリした』と言われかねません。そのくらい、世の中から必要とされていないのです。

 ぼっちは保守的な性格が多く、羽目を外して好き勝手に生きる、ということもなかなかできません。誰かに必要とされることなど意識せず、何も考えずに欲望のままにはっちゃけて満足できる人生を送れれば、とても幸せになれるでしょう。ですが、毒にも薬にもならない性格、とでも言いましょうか。ただひたすら、日々をひっそりと生きているだけです。

 毎日、起きて、仕事をして(あるいは仕事をしないで)、食べて飲んで、趣味を少しは楽しみ、寝る。地味な人生です。ぼっちでいるのが長いほど、人と交際するのが億(おっ)劫(くう)になっていきます。他人と口を利くのは、仕事の業務連絡と、せいぜいが買い物のお会計で「レジ袋はお使いですか?」「いいえ。いりません」と言うくらい。こんな人が、明日からいなくなっても、誰も気にとめないでしょう。

 

 誰からも、必要とされていない……。

 

 ふと、そんなことに気づくのは、どんな瞬間でしょうか?

 それは幸せそうな家族を見た時かもしれないし、腕を組んで歩いているカップルにあてられた瞬間かもしれません。または、真夜中にひとりで人生について考えていた時かもしれません。
 そしてそれを『辛いな』と感じるのは、ぼっちになりたての人だと思います。

 ぼっち生活が長く、年を取ってくると感受性も鈍くなってくるのでしょうか。『誰かに必要とされなくたって、べつに生きていける。現に、こうして今も生きている』と、次第に開き直ってきます。心に若干のチクチク感はあっても、セーターのチクチクを我慢する程度の不快感しかありません。

 そもそも、「わたしって、世の中の誰からも必要とされていないの?」という質問が浮かぶのは、暇だからです。暇で何もすることがないと、人間はさみしいしむなしいな、と感じるようになります。仕事で忙しいとき、目の前のことに必死に取り組んでいると、こんなタワゴトのような質問は思い浮かんできません。生きること、食べることに切羽詰まっていると、何の腹の足しにもならない哲学的な思想など、役に立たないからです。

 極論すると、「わたしは誰からも必要とされていない」という悩みを悩めるということは、あなたが今、非常に余裕のある生活ができているということです。
 たとえば、職場で誰かからひどいイジメや嫌がらせをされて精神的にどん底であれば、もっとひどいメンタルになり、明日も明後日も続くゆううつな毎日のことで頭がいっぱいになります。お金に困っていれば、必死に節約方法を考えたり、割のいいバイトや副業を探すのでいっぱいいっぱいです。家族が病気で入院したり、親の介護が必要になるなど、ヘビーなシチュエーションになれば、どう対処していくかに追われて大変です。

 そう思えば、部屋の中でぼんやりと「世の中から必要とされないというのは、悲しい……いてもいなくても、同じだなんて、生きていても仕方がないのでは……むなしい」と、物思いにふけっていられるのは、幸福ではないにしろ、さほど不幸ではありません。自分を振り返る余裕のある暮らしをしている、ということです。大きな不幸もなく、とりあえずの生活は確保され、考える時間もあり、精神的にも圧迫されていない状況です。

 ただ、「あなたのその、悩みの原因は『暇』だからです」と言い切ってしまうのも、大雑把で鈍感な物言いですね。

 ぼっちに限らず、両親や恋人など、自分が愛情を注ぐ対象から『半ば無視』されてしまうことも、慢性的な孤独感を生み出す原因になります。その場合、その人は誰かと一緒に暮らしていても『精神的ぼっち』になってしまいます。より強く「わたしは、誰からも必要とされていない」と、胸に刻みつけるのです。愛情を求める対象を間違えると、しばしばこの悩みに陥ります。それは『決して愛情を返してくれない相手』に、自分の愛情を注ぎ続けるむなしさから来ています。

 なお『精神的ぼっち』の方は、愛情を求める対象を選択し直すと、問題を解決できる可能性があります。

 たとえ話で例を挙げると、毒親に愛情を求めるケースです。あなたは長年、ほかの兄弟とくらべて母親が自分に冷たいと感じていたとします。自分はひょっとしたら血のつながらない連れ子ではないのかと疑っても、戸籍を確認するとやはり親子です。母親に認めてもらうために子供の頃から親に面倒をかけず、勉強を頑張っていい学校に入り、大人になってからもしっかり働いて親を旅行に連れて行くなど、できるだけ親孝行をしていたとしましょう。

 ところが、母親の態度は依然として、そっけないものでした。あなたが何をしてあげても『当然』とでも言わんばかりの態度で、愛情らしい愛情を感じたことはありません。それなのに、兄にはベタ甘です。兄が悪いことをすると、母親は兄が悪いとわかっていても、あなたのせいして怒ります。就職もせずに家でゴロゴロしている兄をお客様のように扱い、三食上げ膳据え膳。

 しまいには「お金が足りなくて困っている」と泣いている母親を見かねて、あなたが一生懸命に貯めた貯金の中からお金をあげると、母親は「ほら、お兄ちゃん、これで遊びにでも行きなさい」と目の前で兄にそっくりそのまま手渡し、あなたの心を踏みにじるようなことを平気でし続けます。兄がいそいそとパチンコに出かけ、あなたが「あれは兄にあげたものではない」と母親に抗議すると、母親は目を吊り上げて「あんたには、親の心なんて、わからないのよ!」と逆ギレされました。

 無論、わかるはずもありません。あのろくでなしの兄と同じ子供なのに、こんなに尽くしているのに、どうして母親は自分にこうもキツくて冷たいのだろう。次第にあなたは、何もかもがむなしくなります。誰からも必要とされていない、実の母親でさえ、こんななのだから……と絶望します。

 

 こんな話は大昔からあります。新約聖書の放蕩息子のたとえ話をご存知でしょうか? 

 ある人が二人の息子に財産を分け与えたあと、弟は出て行って放蕩の末、あっという間に財産を使い果たしてホームレス同然になりました。兄は父親に仕えて、まじめに働いて財産を守っていました。その後、弟は食べるにも窮(きゅう)して、父親に「使用人でもいいので、家にいさせてください」と願います。父親は弟の姿を哀れに思ってやさしい言葉をかけ、良い服を着せてごちそうをこしらえてもてなし、家に迎え入れて大喜びしました。

 面白くないのは、やはり兄です。「親孝行している自分には、友達が遊びに来てもごちそうなんて出してくれなかったのに、あのろくでなしのために、牛を食べさせるなんて!」と、兄は怒りました。ずっとまじめに働いて父親を助けてきたのに、遊んで身代をつぶした弟の方が大事にされるのですから「やってらんない」と思うのはもっともです。

 放蕩息子のエピソードは「バカ息子が改心したいい話」になっていますが、わたしはこれを読んで、なんて世の中は理不尽なのだろうと感じました。一般的な解釈では「兄は狭量で許しの心がない人間のたとえ」とされています。放蕩者であっても改心したら許してあげましょう、という話の趣旨は理解できても、「何か理不尽」と感じました。

 あるいは、このたとえ話は父親に尽くそうが尽くすまいが、父の子供への愛は変わらない、だからまじめだろうが放蕩しようがあなたは愛されているんですよ、という意味もあるのかもしれません。兄のその後はわかりませんが、おそらく悶(もん)々(もん)とした思いを抱えながら生きたのではないかと想像します。

 

 いずれにせよ、たとえ話はたとえ話です。リアルはたいていの場合、綺麗に話のつじつまが合うことはありません。多くの矛盾と向き合いながら、人を愛したり憎んだりします。

 あなたの愛情を理解できない人、あるいは理解してくれそうもない人に対しては、どこかで見切りをつけましょう。どんでん返しのハッピーエンドは、物語の中だけです。『世の中は、そういう風になっているんだ』という、あきらめも肝心です。さもないと、先のたとえ話のように、非常に惨めな人生になってしまいます。愛情を求める相手・愛情を注ぐ相手を間違えると、いつしか自分の中にある生きるエネルギーが枯渇してしまうからです。

 血がつながっている実の親のはずなのに、まったく違う性質で理解し合えないケースは、多々あるようです。わたしの場合も親とは合わず、幼いころから『わたしは橋の下で拾われた子なんだ』とよく考えていたものでした。大切な人に愛情を求める思いは断ちがたいことですが、自分が聖人ではないこと、愛を注ぐにも限りがあることを自覚しましょう。右の頬も、左の頬も、交互にビンタされ続けながら、誰かを愛するのは至難の業なのです。もう、自分を楽にしてあげてください。そして、愛情を注ぐのは、少しは愛を返してくれる相手にしておきましょう。

 

 ――誰からも必要とされていなくても、人は生きられるのだろうか?

 その質問は、イエスです。

 大丈夫です。自分で自分の面倒さえ見られれば、誰からも必要とされていなくても、ちゃんと生きていけます。わたしがその、証拠ですから。

 

お試し版はここまでです。


 

 

ぼっちですが、何か?のお試し版でした。

 
 
 
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